アジア・太平洋戦争―シリーズ日本近現代史〈6〉

アジア・太平洋戦争―シリーズ日本近現代史〈6〉 (岩波新書)

アジア・太平洋戦争―シリーズ日本近現代史〈6〉 (岩波新書)



岩波のシリーズ日本近現代史の第6巻は第二次世界大戦期の日本。1940年から1945年まで。


著者は太平洋戦争という呼び名は「日米戦争本位の呼称」であって、「中国戦線や東南アジアの占領地の重要性が見失われてしまう」という理由から表題の「アジア・太平洋戦争」という名称を提唱されているそうです。確かに海軍は開戦当初からアメリカ軍と戦っていましたが、陸軍はガダルカナルのころまでは中国、東南アジアを主戦場として主に中国(国民党軍)、イギリス、オランダなどと戦っていました。日本人にとっては終盤にアメリカによって国土に大打撃を与えられたインパクトから対米戦争という印象を持ちがちですが、当初の日本の戦争目的(国内の意思統一が果たされておらず、いろんな立場の人間がいろいろな目的を提唱していますが)の中ではアメリカの打倒は主目的ではありませんでした。


本書の内容のメインは開戦にいたるまでの経緯と、戦争下の国民生活。そのほかに軍における兵の扱いや日本政府の構造的な欠陥とそれを乗り越えようとする東条英機の努力などです。本書は通史本であって戦記本ではないので、こまかい戦況の推移や個々の戦闘の詳細などはほとんど記されません。


戦記本の中には日本の開戦時の快進撃を称賛するようなものが多いですが、基本的にはその快進撃は準備不足の相手に対する奇襲効果であって、日本軍が本質的に強かったわけではありません。もちろん奇襲は立派な戦術であってそれに成功したことは一定の評価をし得るものではありますが、その成功を戦略的あるいは政略的な勝利に結びつけることができなかった展望のなさの方がより重要であろうと思います。


戦争の中で国民生活はどんどん窮乏し、兵の戦死は急増し、空襲によって民間人も多数が死亡する事態となり、多くの人々が相当な苦難に直面するのですが、感じるのは日本人の行動力のなさです。戦時下の生活の悲惨さを強調されればされるほど、なぜそのような状況に耐えようとするのか、理解に苦しみます。たとえば、第一次大戦では敗勢にあったドイツで革命が起こりドイツ帝国は崩壊しました。ロシアは戦勝国側でしたが国民が戦争負担に耐え切れず革命を起こしました。第二次大戦でもイタリアでは戦局が不利になるとすぐにムッソリーニが失脚し、いち早く降伏しています。日本人は生活がどれだけ苦しくなろうともほとんど文句も言わず行動も起こさず、結局敗戦まで革命どころか小規模な暴動すらも起こりません。確かに軍部による監視統制が厳しく、ヘタな行動に出れば殺される危険があったのではありますが、行動にでなくても空襲や飢餓で死ぬ可能性は大いにあり日々死に直面しながら生活していたのですから、どうせ死ぬなら何かやろう、みたいな気概がまったくないというのは問題だといいましょうか、やや残念です。


現在でも東日本大震災の復興にあたって、「国が対策を実行しろ」「国が基準を示せ」「国が展望を描け」と、「国が〜、国が〜」の大合唱ですから、よほど政府が大好きなお国柄なのかもしれません。要求するだけで何も行動しないという点においては一般市民から地方自治体の長まで同じであり、地方分権なども絵に描いた餅だな、と思えます。対策にしても「オレが行動するから、国はカネだけよこせ」とか、基準や展望についても「オレが示してやるから国は承認だけしろ」というような行動的な対処があり得るはずですが、報道を通じて知るかぎりでは政治家にしても学識者にしてもその他もろもろの立場の人にしても、そのようなリーダーシップを取ろうとしている人はいないようです。行動力のなさというのは、あるいは日本人の国民性に根差した深い問題なのかもしれません。