日本の歴史21―近代国家の出発

日本の歴史21―近代国家の出発 (中公文庫)

日本の歴史21―近代国家の出発 (中公文庫)



中公文庫日本の歴史シリーズ21巻は明治維新直後の文明開化の時代。1878年大久保利通の暗殺(紀尾井坂の変)から1894年の日清開戦直前まで。


明治維新自体が攘夷だとか開国だとか欧米との関係をどう規定するかというところから始まっているものですから、そこから始まった明治政府が外向きの政策を重視するのは当然の結果と言えるでしょう。明治政府は富国強兵を目指して殖産興業に邁進しますが、彼らの言う「富国」は国民を富ませることではなく、国庫を満たすことを言います。殖産興業も要は国民をフル稼働させてその成果を国庫に税として上納させることが目的です。本書の中ではこうした明治政府の国民に対する態度を批判的に描いています。政府の中枢を占める藩閥出身者は旧武士階級の出身であり、確かにその武士階級の中では比較的身分の低い者が多いですが、所詮は旧支配階級の生き残りですから国民に対する態度について期待できる人々ではないのです。


そして本書のもう一つの主題は自由民権運動です。ほぼ一冊を通して自由民権運動と明治政府の攻防が追跡されています。自由民権運動と言えば元々は旧士族救済運動ですが、西南戦争での旧士族の敗北により勢力を立て直す必要に迫られて被支配階級たる農民の中の指導層である豪農層と手を結びます。このことにより自由民権運動が民衆と結託する可能性が生まれ、明治政府は自由民権運動が民衆を「煽動」して蜂起するような事態をもっとも恐れることになります。本書を読むと、この時期の政府の危機感がかなり切迫したものであったことがよく分かります。


結局明治政府は国会開設を認めることになります。これは自由民権運動の勝利のように言われることが多いですが、実際は納税額で制限された参政権を設定することで豪農層に参政権という特権を与えて被支配階級から切り離し支配階級側に取り込むことで、豪農層が自由民権運動と民衆を結びつける橋渡しの役割を果たす可能性を摘み取ろうとしたわけです。非常によく考えられた策謀であったと評価することもできるのではないでしょうか。


本書の終盤では明治憲法が制定され国会が開設されます。政府は豪農層の取り込みを図りつつ、一方で憲法内での国会の地位・権限を低く抑えて豪農層の動きを制御しようと試みますが、本書における政府の国会運営を見ているとその意図はなかなか実現が難しかったようです。豪農層に「軒を貸して母屋を取られる」ようなことにもなりかねない勢いがあったのですが、ここで運よく朝鮮情勢が緊迫化し、清国との関係が悪化して「国難」に対して国内が一致団結していく方向へと流れていきます。「運よく」とは言いましたが、明治政府が意図的に緊張関係を増幅する工作を実施していたのはもちろんのことです。


本書では全体を通して、民衆に対する明治政府の過酷な支配が批判的に描写されますが、やや視点が現代的に過ぎるきらいがあるように思えます。当時は人権意識などはほとんどなかったでしょうし、今でこそ国家は国民のものですが、当時は国民が国家の所有物でした。このような考え方が基盤にあればこそ過酷な支配が実行されるのであって、指導者たちの個人的資質の問題ではないのです。現代でもそうですが、政治家に実行力のある人、人格の高潔な人などと望むのであれば、個人的資質としてそのような特質を持つ人をただ待ち望むのではなく、そのような人が評価され報われるような思想的裏付けや制度を用意して、望まれる人を意図的に指導者へと導くような積極的な姿勢が国民の側に必要であろうと思います。