高度成長―シリーズ日本近現代史〈8〉

高度成長―シリーズ日本近現代史〈8〉 (岩波新書)

高度成長―シリーズ日本近現代史〈8〉 (岩波新書)



岩波新書のシリーズ日本近現代史の第8巻は高度成長期。巻末年表では1954年から1985年までですが、実際の記述では中曽根内閣への言及は巻末に少しあるだけで、おおよそ70年代くらいまでが記述範囲です。


読んだ感想としては、読み物としてはあまり面白くないですね。著者が経済史学者ということで内容は主に政治史、経済史がメインなのですが、記述は事実関係が延々羅列されているだけのような印象があり、非常に表層的です。まだ時間的に近い時代なので研究が深化しきっていないということでしょうか。また、著者の主張があまり感じられず、非常に客観的です。歴史叙述というものはそのようなものでよいと考える人もいるでしょうけれども、自国の歴史、しかも非常に近い時代の歴史であるにも関わらず、まるで他人事のように感じられます。


私の主観としては、この時期の経済成長政策は全体としては成功だったと思っています。確かに急激な経済成長は公害や政財界の癒着など負の側面もあったことは確かです。しかし今現在の日本人の生活水準を見れば、世界的には非常に恵まれていると思います。この生活水準の多くは、この高度経済成長の時期に形成されたものです。豊かさの計測基準は様々に提案されていて、その中のいくつかの基準にあっては日本は貧しいと結論付けるものもあるようです。しかし世界の貧困層や戦争その他で治安の悪い地域に暮らす人々と比較して考えてみれば、日本人が貧しいとか不幸だとか結論付ける議論には違和感を感じます。そのように結論付ける人々は、世界的レベルの貧しい暮らしや危険な暮らしを実体験してみると良いのではないでしょうか。

日本の歴史21―近代国家の出発

日本の歴史21―近代国家の出発 (中公文庫)

日本の歴史21―近代国家の出発 (中公文庫)



中公文庫日本の歴史シリーズ21巻は明治維新直後の文明開化の時代。1878年大久保利通の暗殺(紀尾井坂の変)から1894年の日清開戦直前まで。


明治維新自体が攘夷だとか開国だとか欧米との関係をどう規定するかというところから始まっているものですから、そこから始まった明治政府が外向きの政策を重視するのは当然の結果と言えるでしょう。明治政府は富国強兵を目指して殖産興業に邁進しますが、彼らの言う「富国」は国民を富ませることではなく、国庫を満たすことを言います。殖産興業も要は国民をフル稼働させてその成果を国庫に税として上納させることが目的です。本書の中ではこうした明治政府の国民に対する態度を批判的に描いています。政府の中枢を占める藩閥出身者は旧武士階級の出身であり、確かにその武士階級の中では比較的身分の低い者が多いですが、所詮は旧支配階級の生き残りですから国民に対する態度について期待できる人々ではないのです。


そして本書のもう一つの主題は自由民権運動です。ほぼ一冊を通して自由民権運動と明治政府の攻防が追跡されています。自由民権運動と言えば元々は旧士族救済運動ですが、西南戦争での旧士族の敗北により勢力を立て直す必要に迫られて被支配階級たる農民の中の指導層である豪農層と手を結びます。このことにより自由民権運動が民衆と結託する可能性が生まれ、明治政府は自由民権運動が民衆を「煽動」して蜂起するような事態をもっとも恐れることになります。本書を読むと、この時期の政府の危機感がかなり切迫したものであったことがよく分かります。


結局明治政府は国会開設を認めることになります。これは自由民権運動の勝利のように言われることが多いですが、実際は納税額で制限された参政権を設定することで豪農層に参政権という特権を与えて被支配階級から切り離し支配階級側に取り込むことで、豪農層が自由民権運動と民衆を結びつける橋渡しの役割を果たす可能性を摘み取ろうとしたわけです。非常によく考えられた策謀であったと評価することもできるのではないでしょうか。


本書の終盤では明治憲法が制定され国会が開設されます。政府は豪農層の取り込みを図りつつ、一方で憲法内での国会の地位・権限を低く抑えて豪農層の動きを制御しようと試みますが、本書における政府の国会運営を見ているとその意図はなかなか実現が難しかったようです。豪農層に「軒を貸して母屋を取られる」ようなことにもなりかねない勢いがあったのですが、ここで運よく朝鮮情勢が緊迫化し、清国との関係が悪化して「国難」に対して国内が一致団結していく方向へと流れていきます。「運よく」とは言いましたが、明治政府が意図的に緊張関係を増幅する工作を実施していたのはもちろんのことです。


本書では全体を通して、民衆に対する明治政府の過酷な支配が批判的に描写されますが、やや視点が現代的に過ぎるきらいがあるように思えます。当時は人権意識などはほとんどなかったでしょうし、今でこそ国家は国民のものですが、当時は国民が国家の所有物でした。このような考え方が基盤にあればこそ過酷な支配が実行されるのであって、指導者たちの個人的資質の問題ではないのです。現代でもそうですが、政治家に実行力のある人、人格の高潔な人などと望むのであれば、個人的資質としてそのような特質を持つ人をただ待ち望むのではなく、そのような人が評価され報われるような思想的裏付けや制度を用意して、望まれる人を意図的に指導者へと導くような積極的な姿勢が国民の側に必要であろうと思います。

悪魔の話

悪魔の話 (講談社現代新書)

悪魔の話 (講談社現代新書)



宗教的な存在としての悪魔について、現代に伝わるいろいろな逸話や歴史上の伝説などを紹介します。


悪魔というものは世界中の様々な宗教に存在するものですが、本書では一部日本の河童も登場しますが、メインとしてはヨーロッパにおけるキリスト教の悪魔に関する話題が紹介されています。学術的な堅い内容ではなく、独特の文体でおもしろおかしく悪魔について語られていきます。


一神教においては悪魔というのは非常に厄介な存在です。神は絶対の存在ですべてを創造したのですから、当然悪魔も神が創造したことになります。したがって、神が創造したものがなぜ悪なのか、何のために神が悪魔を創造したのか、この説明に中世の人々はかなり苦労しています。宗教側にとっては悪魔というのは民衆を恐れさせて宗教に依存させるために有用な存在でしたが、しかし教義上は悪魔の存在を説明するのが難しく、諸刃の剣でした。宗教側の説明としては、悪魔は元々は神によって善なるものとして造られたとし、それゆえにルシファーはかつて大天使であったという話になっていきます。そして悪魔たちは自らの自由意志により堕落したのだ、とされています。これもある意味苦しい説明で、結局絶対者であるはずの神は悪魔を制御しきれていないことになるのですが、とりあえずこの説明が通っていたようです。もっと厳密な神学者などはいろいろなツッコミを入れてきていたものと思われますが、本書ではあまり深入りしません。まぁ、非キリスト教徒の目からすると実在しない想像上の存在である悪魔について、その定義や性質を細かく論じても意味がないような気がしますので、こういうスタンスも別にいいかなと思います。そういう方面に興味のある方は別の本を当たられると良いでしょう。


それよりも本書ではいろいろな逸話を紹介する中で、そのような逸話を語り広めた民衆の側の実情を浮かび上がらせる、民俗学的な観点が主です。とは言っても民俗学的な意味においても学問的な説明がくどくどなされることはなく、悪魔すらも利用して裏切ってしまう人間の邪悪さが皮肉をこめて言及される程度です。また、魔女について、特に魔女裁判によって多くの犠牲者が出たことについてかなりのページを割いて紹介されています。ここでも宗教的な熱狂を利用する形で、不都合な人間を処分する人間の姿が紹介されています。中世の抑圧された民衆の「陰」のエネルギーが生み出したゆがんだ想像物である悪魔ですが、それだけに人間の本質のようなものが見えておもしろいですね。

占領と改革―シリーズ日本近現代史〈7〉

占領と改革―シリーズ日本近現代史〈7〉 (岩波新書)

占領と改革―シリーズ日本近現代史〈7〉 (岩波新書)



岩波新書のシリーズ日本近現代史の第7巻。扱っている時代は1945年の敗戦から1955年くらいまでのはずですが、実際に記述があるのは1951年末ころまで。


本書はかなりクセのある本です。現状一般的に認識されているアメリカの占領改革時代に対する認識を「部分的、主観的、恣意的な無条件降伏のサクセスストーリー」だとし、占領改革の成果とされるものについて日本の戦前、戦中に既にその芽があったのではないか、つまりアメリカによる改革がなくとも日本は独自に改革できた可能性があったはずだ、というのが本書の主張です。この方針に基づき、アメリカが実施した五大改革(婦人解放、労働組合結成の奨励、学校教育の民主化、秘密審問司法制度の撤廃、経済機構の民主化)や日本国憲法について、これらの分野に関する戦前、戦中の動向を紹介し日本国内にも改革が行われうる条件が揃っていたことを論じます。


読んだ感想としては、本書の主張にはやや無理があるような印象を受けました。確かに日本国内にも自由主義者共産主義者社会主義者が戦中も存続し、地下活動を実施していたことは知っていますが、それらはごく限られた人々でしかなく、それらの動向はまったく大衆化していません。著者は占領がなくとも、しかも敗戦すらなくとも、日本は民主化し自由化したはずだとしています。確かにソ連、東欧も民主化した現代から考えると歴史の流れの方向性として日本もいずれは自己改革できただろうと考えるのはよいのですが、しかし相当に時間がかかったであろうと推測されます。歴史の流れの中では、勝者よりも敗者の中にこそ徹底的な改革が行われ、むしろ勝者の中には旧体制が温存されて次の時代には優劣が逆転する、というようなことはよくあります。日本がもし敗れなかったら、と想像するとおぞましい未来しか想像できないのは私だけではないと思います。もちろん戦時中の日本の総力戦体制は戦争が前提ですから、もし戦争が勝利に終われば体制は弛められた可能性はありますが、日中戦争以来戦争することが自己目的化していた軍部は新たな敵を探し出して戦争を継続した可能性もあります。もちろん、既に国力は枯渇していましたので全面的な戦争は継続できなかったでしょうけれども、戦時体制を維持するための名目的な戦争状態、つまり外交的な強度の緊張状態を演出するくらいのことはやっただろうと思われます。そうなれば国内の改革は大きく遅れることになったでしょう。


また、総力戦体制によって日本の古い「家」制度が崩壊し、労働者の経済力が(低い方に)平準化されたという一面があったというのも、それは確かに指摘の通りだと思いますが、だからといってすぐに男女平等や労働者の地位向上、経済の自由化が実現できたかというと、それも怪しいと思います。社会的な変革というのは1人、もしくは少数の人々によって主導されることはよくあることですが、しかし変革が成功するには変革を受け入れる大衆の側にも相応の準備が整っていることが必要です。アメリカの占領改革もアメリカの強制力はもちろんありましたが、それが成功し日本社会に根付いた背景には日本社会がそれなりに成熟していたことがあるのは事実だと思います。しかし、だからといってアメリカによる強制がなくとも日本が改革しえた、アメリカの占領改革に対する評価は過大だと結論することはできません。およそ歴史的な大変革は、社会に変革を求める空気が充満しているところに、小さなきっかけが加わって達成されることが多いのですが、重要なのはこの「きっかけ」なのです。不満はただ思っているだけでは解消されません。行動する必要があります。歴史とは権力者による大衆抑圧の歴史でもありますが、この歴史を眺めるかぎり、「行動を起こす」ということは存外に難しいことなのだということが分かります。1人の、本当に英雄的な1人の勇気ある行動がきっかけになることもありますし、小さな揉め事が偶然に助けられて大衆暴動に発展することもありますが、こういうきっかけがないとなかなか行動を誘発することはできないのです。アメリカによる強制は、このようなきっかけの一つであったと思います。日本国内には戦時体制下での貧しくて不自由な生活に対する不満がそれなりの水準で存在していたのでしょう。アメリカはそのような思いにきっかけを提供したのです。日本国内に改革を成功させる諸条件が整っていたのは事実でしょうけれども、それでもきっかけを作った占領改革の価値は低下することはないと思います。


ただ、この日本の占領改革成功に味をしめたアメリカが過剰な自信を抱いて二匹目のドジョウを狙い、現在も世界中で失敗を繰り返しているというのは同意です。ちょっと成功しすぎたという面はあったと思います。日本の占領改革の成功は上で書きました通り、アメリカの力だけによるものではなく、日本側の条件が整っていたことも必須の条件でしたから、条件の整っていないところにいくら押しつけても成功しないのです。「勝者は学ばない」というのは歴史の真実でしょう。