チャンダルル・ハリル・パシャ

生年不詳−1453
オスマン朝第6代スルタン・ムラト二世から第7代スルタン・
メフメト二世にかけての大宰相。
オスマン草創期の名臣チャンダルル・カラ・ハリル・ハイレッティン・
パシャ(以下、ハイレッティンと略)と混同されることが多いが、
別人である。
父は、同じくオスマン朝の大宰相を務めたチャンダルル・イブラヒム・
パシャ(以下、イブラヒムと略)。
イブラヒムは前述のハイレッティンの子であり、従ってチャンダルル・
ハリル・パシャ(以下、ハリルと略)はハイレッティンの孫である。
ちなみに「大宰相」とは、偉大な宰相といった意味の尊称ではない。
オスマン朝にあっては宰相職は複数が任命され、それらを統括する
上位の官職として「大宰相」が設置されていた。

出身家門チャンダルル家とウレマー階級

ウレマーとは、イスラムにおける宗教的知識人階級である。
聖職者とされることもあるが、イスラム教はその教義上、聖職者を
認めていない。しかし、宗教的な指導者層であることは間違いない。
ハリルを輩出したチャンダルル家はそのウレマー階級に属し、
始祖ハイレッティン、イブラヒム、その兄チャンダルル・アリ・パシャ
と代々大宰相を務めてきた、オスマン朝初期の最有力の家門である。
一説にはオスマン家を越える財力を有していたとも言われ、当時の
ウレマー階級を代表する存在であった。
ハリルの時代、ウレマー階級は徐々に貴族化しつつあったが、一方で
オスマン家に仕える王宮奴隷勢力も力を持ち始めており、
オスマン朝が「オスマン家を中心とする有力貴族連合政権」となるか、
オスマン家(とその奴隷)による専制体制」となるかの岐路に立つ
時期であった。
ハリルとメフメト二世との関係は、この流れの中で捉えていく必要が
あるだろう。

バルカンでの苦杯

ハリルは1439年、ムラト二世により大宰相職に任命される。
大宰相に任命される以前のハリルの事績は不明である。
この時期、オスマン朝は1402年のアンカラでの敗戦による痛手から
回復し、現在のトルコの領域をほぼ制圧、バルカン半島に進出しつつ
あった。
ムラト二世下においては、ムラト二世がアナトリア(現在のアジア・
トルコ)にあってオスマン領全土に睨みを利かせる一方、ハリルは
バルカン半島にあって占領政策の実務を取り仕切っていたらしい。
しかし最前線を任せられていながら、ハリルは軍事の才には恵まれ
なかったようである。
1443年、ハンガリーのヤノシュ・フニャディが東欧諸国の軍から
なる十字軍を編成、オスマンに支配されて久しいソフィアを解放すべく
「長期遠征」を開始した。
対するハリルは全くなすすべなく、オスマン軍は次々に破られ、
12月初旬ソフィアを奪回される。
冬の厳寒を前に引き上げ始めたフニャディに対して、ハリルはようやく
本格的な反撃に転じようと追撃を開始、しかし、12月12日ニシェ
(現在のセルビアの南東の都市)において逆に壊滅させられる事態を
招く。
フニャディはそのまま引き上げて行ったためにこの敗北は大きな
瑕疵とはならなかったが、ハリルは十字軍の力を過大に評価し、
その後十字軍来襲のたびにムラト二世の出馬を要請することと
なってしまうのだった。

メフメトとの確執

翌1444年、アナトリアにおいてカラマン君侯国が反乱を起こした
ことからムラト二世はその鎮圧に専念せざるを得なくなる。
そしてこの年の夏、ムラト二世は当時12歳の王子メフメトに
バルカン半島の支配を託す。
これは、譲位であったとする説と摂政への任命であったとする説が
あるが、いずれにせよハリルはメフメトの補佐を命じられている。
わずか12歳の統治者に対して補佐役を配したムラト二世の判断は
妥当なものではあったが、残念なことにこの2人の相性が
よくなかった。例えばメフメトはバルカンに着任早々、
スーフィズムのとある僧に対してアドリアノープルでの伝導を
許可したのだがこれが住民の不評を買い、僧がメフメトの元に
逃げ込むという事件が発生する。
ハリルはメフメトに対して僧の引渡しを要求、メフメトはこれに
耐え切れず引渡しに応じ、その僧はハリルによって処刑されてしまう。
また、同じころ幼い統治者を侮ったイェニチェリが反乱を
起こしている。これもメフメトは対応しきれず、ハリルの仲裁によって
ようやく鎮静化する。秋にはフニャディが十字軍を再興、メフメトは
自ら指揮することを要求するが、前年の敗北の記憶も生々しいハリルは
これを退けてムラト二世に親征を要請、これを受けたムラト二世が
11月10日、ヴァルナにおいて十字軍を撃破することとなる。
このように衝突を繰り返すハリルとメフメトの対立は2年後、
ひとたびの破局を迎える。
1446年、メフメトがコンスタンティノープルの攻略を
公言したのだ。ビザンツ帝国はこの時期既に
コンスタンティノープル一都市を領するのみとなっていたとは言え、
その帝都は堅固な要塞都市であり、これまでハリルに度重なる恐怖を
与えてきた十字軍の精神的支柱でもあった。
また、東地中海貿易に重きをなすコンスタンティノープル
ギリシア商人達とハリルは共存の関係を築いていたらしく、
それはムラト二世も承知していたようである。
ハリルは当然メフメトに反対する。
この論争は、メフメトが新興の王宮奴隷層に担がれたことにより、
旧来のオスマン朝上層と王宮奴隷層との政争へと発展、遂にハリルは
事態をムラト二世に訴えるに至る。
これによりムラト二世はバルカン統治を再開、メフメトはマニッサ
移されてしまった。
再びバルカンにやってきたムラト二世は1448年、コソボにおいて
またもフニャディの十字軍を破る。
フニャディはこの敗北で大きな痛手を受け、この後1456年まで
8年間もの雌伏の時を過ごすこととなる。
しかし1450年、アルバニアのスカンデルベクの反乱の鎮圧に失敗、
翌年ムラト二世は急死してしまった。

新帝メフメト二世

ハリルはムラト二世の死をメフメトに通知すると共に、混乱に乗じて
反乱したイェニチェリを鎮圧した。
2月18日、メフメト二世が即位。伝承によればこの即位式において、
ハリルは大宰相として新帝の傍らにあるべきところを部屋の反対側に
立って不満を表したとされるが、今まさに正式にスルタン位を
継ごうとする新帝に対してあからさまな反意を示す行動を
取るようなことが事実であったとは思えない。
19歳になっていた新帝メフメトは、かつての強固な独立心、野心に
加えて、したたかさも身に付けて帰ってきた。彼はハリルを大宰相に
留任させたのである。旧来のオスマン朝上層階級の勢力は未だ
侮りがたく、その懐柔にハリルが使えることを理解していたのだ。
当初、ハリルはメフメト二世に真摯に仕えた。即位間もないメフメトに
謁見したビザンツ使節の無礼に憤ってみせたこともあった。
メフメトがボスポラス海峡のバルカン側に砦を建設し始めると、
ハリルも協力し、その名も「ハリル・パシャの塔」と呼ばれる塔を
築いている。その砦の名はルメリ・ヒサール。
ボスポラス海峡を封鎖することもできるその砦の建設は、メフメトが
コンスタンティノープル攻略を諦めていない物証であったにも
かかわらず。

コンスタンティノープル攻略を巡る暗闘

1452年の暮れ、遂にメフメト二世はコンスタンティノープル攻略の
意志を表明する。ハリルは反対する。
コンスタンティノープルは堅固であり、オスマン軍が攻めあぐねる間に
東欧諸国が結束して十字軍を起こす怖れがある、と。
しかし、メフメトは既に決心していた。
1453年3月26日、遠征に出発、4月5日先鋒隊が
コンスタンティノープル到着。ハリルはメフメト二世の傍らにあり、
ともにコンスタンティノープルの陸側の正面、カリシウス門から
レギウム門にかけて軍を展開する。
この時期、ハリルは自軍兵士の士気低下(事実なのだろうか?)を理由に
講和を主張している。
さらに4月20日、ビザンツからの和平要求を受けての軍議の席上で
西欧に不穏な動きありとして和平受諾を主張。しかし、西欧は既に
ビザンツを見限っており、援軍などはあり得なかった。
5月26日に至っても、ハンガリーからの脅しを含む包囲解除要求に
対して、要求を受諾し撤兵することを主張。
5月29日、コンスタンティノープル陥落。
驚くべきことに滅亡のわずか3日前まで、自らの主君である
メフメト二世に反対しビザンツに肩入れしつづけたのである。
ハリルは情勢を読み違えていたのか。しかし滅亡3日前に至って、
目の前にあるビザンツの断末魔に気付かない、などということが
あり得ようか。長年ウレマー層を代表し、チャンダルル家を率い、
先帝ムラト二世の信頼を勝ち得た人物が、無能であったとは思えない。
この全く単純とも言える判断ミスの理由は、結局解明できなかった。

処刑

コンスタンティノープル陥落のその日のうちに大宰相を罷免され、
その後数日のうちに捕縛されてしまった。
そして処刑。時期は7月とも8月とも言われる。
ハリルの死により、名門チャンダルル家は没落する。
のみならず、これまで大宰相職を独占してきたウレマー層自体が
没落し、これ以降大宰相を輩出することはなかった。
これはまさに、権力階級が総入れ替えとなる大事件だ。
にもかかわらず、当時さしたる混乱があった様子はない。


おそらく、コンスタンティノープル攻略を巡ってオスマン朝内部で
激しい抗争が行われていたのだろう。
そして新興王宮奴隷勢力は、勝利の余勢を駆って一気に権力を
掌握したのではないだろうか。
そして真相は隠蔽され、ハリルはその責を全て負わされたのだ、と
考えれば、ハリルの不可解な行動を説明するのも容易になるのだが。
さらに言えばコンスタンティノープル攻略そのものが、
このようなオスマン内部の勢力抗争の結果であって、
つまり「とばっちり」であったとは考えられないだろうか。
軍事的な勝利は、最も効率的に人心に訴える方法の一つなのだから。

参考文献

  1. メフメト二世―トルコの征服王 (りぶらりあ選書)

    メフメト二世―トルコの征服王 (りぶらりあ選書)

  2. オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」 (講談社現代新書)

    オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」 (講談社現代新書)

  3. ベオグラード1456 -オスマン・トルコとハンガリーとの攻防戦-』 バルタ・ガーボル/著 久保 義光/訳 泰流社
  4. オスマン=トルコ史論』 三橋 富治男/著 吉川弘文館
  5. オスマン帝国の権力とエリート』 鈴木 董/著 東京大学出版会
  6. Ottoman Empire History Encyclopedia
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