源頼朝―鎌倉殿誕生

源頼朝―鎌倉殿誕生 (PHP新書)

源頼朝―鎌倉殿誕生 (PHP新書)



鎌倉幕府を創立した源頼朝ですが、鎌倉殿という
呼称は、幕府創立以前に鎌倉にあった頼朝の呼称
です。本書では頼朝は朝廷を打倒しうる可能性が
あった、との前提のもとに、頼朝挙兵以降、朝廷
に取り込まれる征夷大将軍任命までを追います。


ただ時系列的に追うのではなく、時代の転機とな
りえた3つの時期、頼朝が挙兵した治承4年
(1180)、平家が滅亡した文治元年(1185)、上洛し
権大納言、右近衛大将に任じられた建久元年
(1190)を中心に記述されています。


源義仲との攻防や源義経との確執を見ていると、
鎌倉の腰を落ち着けて上洛を避け続ける姿勢には
当然意味があると見られるでしょう。京都―鎌倉
間の物理的な距離は政治的な距離に転化し、京都
(朝廷)から距離を置き続けたことにこそ、頼朝が
朝廷打倒もそのプランのうちに存在しえたとする
根拠がある、という論法です。しかし、この源平
合戦の内乱のなかで頼朝の方針は変化していき、
ついに建久元年、上洛し朝廷の枠組の中に組み込
まれてしまいます。(ただし、すぐに辞職します
が)
そして有名な1192年、征夷大将軍に任じられて鎌
倉幕府を開くわけです。ちなみに征夷大将軍もす
ぐに辞職してしまいます。


公家、寺家に並ぶ権門としての「武家」を確立さ
せたのは、この頼朝の徹底した朝廷、京都と距離
を置く姿勢があればこそなんですね。源平の合戦
や、義仲、義経との対立は、いわゆる後白河法皇
の陰謀説もありますけど、本書を見る限りは、武
家同士の争いの中で右往左往しているにすぎない
ように見えます。頼朝こそが、事態を見通して国
内に平穏をもたらしたその人である、という感じ
です。もちろん、これにはいろいろな説があるこ
とと思いますけど、頼朝が確立した権威がその後
武家の権威の源泉となったことは、その後の北
条氏政権やさらに後の足利幕府、江戸幕府を見れ
ば明らかだと思います。そういう意味で頼朝は偉
大であった、とは言えそうです。