日本の歴史〈18〉幕藩制の苦悶

日本の歴史〈18〉幕藩制の苦悶 (中公文庫)

日本の歴史〈18〉幕藩制の苦悶 (中公文庫)



中公文庫「日本の歴史」シリーズの第18巻は江戸時代後期。巻末の年表では1781年から1845年まで。ほぼ、徳川第11代将軍家斉の生涯(1787〜1837)と重なります。



前巻の元禄の華やかさから一転、天明の大飢饉から始まる本巻はかなり暗い世相の時代へと突入していきます。この巻が扱う時代の主な出来事はこの天明の大飢饉に始まって、寛政の改革大塩平八郎の乱天保の改革など。前巻で田沼意次重商主義に転換しかけたところで失脚し、寛政の改革によりふたたび重農主義、倹約主義に揺り戻します。すでに農業を基盤とする幕府の体制は危機的状況にあったにもかかわらず、商工業を卑しいものとする思想から幕府は抜け出せません。これが武士階級の限界でしょうか。



寛政・天保の改革には見るべきものはほとんどなく、見当違いな政策を連発して幕府はどんどん弱っていきます。その極みは天保の改革で出された上知令。幕府の存立基盤は武士階級であるため武士階級に利益を与え代わりにその支持を得るのが基本政策であるべきですが、幕府の財政窮乏の度合いは重篤状態にあり、ついに武士領主すなわち藩から領地を広く召し上げようとします。当然諸藩はこれに強く反対し結果として上知令は撤回されるのですが、これにより失った武士階級からの支持は幕府にとってかなり痛手であったろうと思います。



外交関係も結構おもしろく読めました。寛政の改革を主導した松平定信の時代にはすでにロシアが日本近海に出没し外患を成していましたが、このころは後に幕末のころに言われる「鎖国は祖法」という思想はまだなく、松平定信は対ロシア開国も考えていたそうで、これには驚きました。まだこのころは外国対策で幕府が朝廷にお伺いを立てるというようなことはなく、松平定信も開国を議論するにあたって朝廷の意見を聞くようなことはしていません。幕府落ちぶれたりといえども、まだこの時期の幕府には余力がありました。というよりも朝廷を始め幕府に対抗しうるような勢力が未だ成長できていなかったことから相対的に幕府の力が強かっただけでしょうけれども。



文化面での記述もおもしろかったですね。江戸はもともと関東の片田舎で、徳川幕府成立後も文化的には畿内に大きく遅れを取ってきました。江戸に住む人々は武士にしろ町人にしろどこかから移住してきた者が多く、つまり地方出身者の集まりだったのです。しかし江戸が政治の中心となって以来200年を越えるようになるとそういった江戸在住者の中には数世代を江戸に過ごしてきた者達が現れ、次第に「江戸っ子」を形成するようになっていくのです。こうした人々が、町人層の経済的な成長とも相まって独自の文化を成立させていきます。ようやく京都、大坂の上方文化に対する江戸文化が成長していき、これが今の下町文化に繋がっています。この時期に成立した浮世絵も、江戸文化として紹介されています。



あとは、「大日本沿海輿地全図」を作った伊能忠敬間宮海峡を発見した間宮林蔵とが師弟関係にあったというのも知りませんでした。まだまだ歴史には知らないことが多く、こういう発見がまた歴史をおもしろくしていくんですよね。