日本の歴史〈19〉開国と攘夷

日本の歴史〈19〉開国と攘夷 (中公文庫)

日本の歴史〈19〉開国と攘夷 (中公文庫)



中公文庫日本の歴史シリーズの第19巻は幕末。扱う年代は、年表では1840〜1867年となっていますが、メインは1853年の黒船来航から1867年の大政奉還まで。戊辰戦争は次巻の模様。



江戸時代というと停滞と保守の時代であり、さぞかし老害もひどかったのであろうと思われがちだと思いますが、登場人物は意外に若い年代の人が多数を占めます。志士とよばれた人々が若いのは当然なのですが、幕府も結構若いんです。

・将軍徳川家茂は13歳(数え年。以下ほとんどが数え年)で就任し21歳で没。

徳川慶喜は1866年将軍就任時31歳、1867年大政奉還時32歳。

大老井伊直弼は1858年大老就任時44歳、1860年桜田門外の変で暗殺されたとき46歳。

・老中阿部正弘は1843年老中就任時25歳、1857年39歳で没。

・老中堀田正睦1855年老中復帰時46歳、1864年55歳で没。

水野忠精1862年老中就任時30歳、1867年大政奉還時35歳。

板倉勝静1862年老中就任時40歳、1867年大政奉還時45歳。

当時は今よりも平均寿命が短い時代でしたが、幕閣中枢部でも30〜40歳くらいが多く、20代で幕閣入りしている人物もいます。これで老害とはちょっと言えません。

幕閣以外でも当時活躍した幕府側要人では、

会津藩松平容保1862年京都守護職就任時27歳、1867年大政奉還時32歳。

桑名藩松平定敬1864年京都所司代就任時18歳、1867年大政奉還時21歳。

幕臣小栗忠順は1867年大政奉還時41歳。

幕臣勝海舟は1867年大政奉還時45歳。

となっており、藩主クラスは若年層が多く、幕臣でも幕末期を働き盛りの30代から40代で過ごした人々が第一線で活躍しています。これらの人々はその若さもあってか必ずしも保守的ではなく、幕府の改革や諸外国との交渉で成果を挙げている人々も少なくありません。



幕末の当初は幕府が開国派で朝廷が攘夷派でしたから、むしろ幕府の方が先進的で朝廷の方が保守的でした。攘夷志士といわれた人々も神国思想だとか中華思想だとか非常に保守的な思想に囚われており、幕末前半はこれらの人々の活動はほとんど実ることなく消えていきます。幕末後半に長州・薩摩が諸外国と直接交戦してその力を実体験したことで、ようやく志士たちが現実的な路線を採用し始めるんですよね。古い攘夷思想がいわゆる「小攘夷」、新しい攘夷思想が「大攘夷」と呼ばれています。



幕府というものは根本的には軍事政権ですから、諸外国に浸食されても「勝てません」などと言っている時点で存在価値が大きく傷つくのは当然なのですが、それでも自己保身のために諸外国に無謀な戦争を挑むのではなく、敢えて戦争を避けて事態の軟着陸を目指した幕府の方針は、のちに第二次世界大戦で自己保身のために国民を犠牲にした大日本帝国政府・軍部に比較して立派であるような気もします。攘夷派であった孝明天皇は国土が焼け野原になっても夷狄と戦え、と言っていたのですから、どちらが国のことをよく考えていたかは明らかだと思います。最近は幕府の再評価が進んでいるようですので、明治新政権が賢明な改革派で江戸幕府が愚かな保守派という単純な図式から脱却してより理解が進んでいけばよいと思います。

中国古代の予言書

中国古代の予言書 (講談社現代新書)

中国古代の予言書 (講談社現代新書)



タイトルには予言書とありますが、ノストラダムスみたいな予言書が登場するわけではありません。本書の主題は中国古代の書物「春秋」と、その伝とされる「左氏伝」、「公羊伝」、「穀梁伝」の解説です。



これらの書物がなぜ予言書なのかと言うと、これはネタバレなのですが、最近の研究によりこれらの書物は中国古代の戦国時代の諸国の王たちの立場を正当化する目的で作成されたものだということが明らかになってきているからです。この正当化の方法というのが、神話の時代から夏、殷、周といった歴代王朝などの過去の中国の歴史を分析してそこに規則性を見つけ出し、それを戦国時代の王に当てはめて、この人物が王として君臨するのは当然のことだ、と結論付けるというものです。



しかしこれがかなり難解です。この本には「微言」という用語がよく出てきます。微言というのは、ほのめかす言葉、というくらいの意味で、「この人が王になるのは当然なんだ!」とはっきり宣言するのではなく、過去の歴史を解説したり吉兆や災厄を並べてそれとなく王の徳に気づかせることで、その本の読者が王による支配を受け入れるように仕向けるという非常に回りくどいことをしているため、その王権正当化の論理が非常に理解しにくいのです。なぜこのような回りくどいことをしているのか、という疑問については本書では答えてくれていないのですが、当時は儒教の考え方が広まり始めていた時期で、あまり表立って自分を売り込むような浅ましい行為は、それが特に王の権威を確立するにあたっては好ましくない雰囲気があったのでしょう。



で、つまり過去の歴史から説明して、その法則からするともうすぐこの地に英雄が現れるはずだ、というような「予言」を記して、その英雄こそが現在の王であると言いたいわけです。だから「予言書」なのです。



この本には他にも中国の後漢くらいまでの時代についていろいろ言及があり、大胆な推論なども展開されていて中々に面白かったですね。理解するには一度読むだけでは足りず、何度か読み返す羽目になりましたが、中国古代の儒学者たちがその知識を集めて作った王、および皇帝の正当化の論理の一端が垣間見れたような気がします。



たとえば近代西洋文明では論理が明快であることに価値を置く考え方をしますが、東洋にあっては論理が難解であることが権威をもたらすというような考え方があります。この非常に難解な王権正当化の論理は、そのような東洋的価値観の先駆を為すものかもしれません。

満州事変から日中戦争へ―シリーズ日本近現代史〈5〉



岩波のシリーズ日本近現代史の第5巻。扱っている時代はタイトルにある通り、満洲事変のあった1931年から日中戦争の始まりとされる蘆溝橋事件発生の翌年である1938年あたりまで。



本書では一貫して「満州」の呼称が使用されていますが、本来は「満洲」です。「満洲」はこの二文字セットで固有名詞であって、「満」という名の州が存在したわけではありません。本書の著者はこの時代を研究しておられるようなので「満洲」の呼称についてはおそらくご存知だと思いますが、「満州」の字を充てることについて何らの説明もありませんので、どのような意図を用いてこの字を充てておられるのか分かりません。所詮は新書ですから専門書ではないのであまりこだわるべきではないかもしれませんが、できれば「満洲」を使用していただきたかったな、と思います。



満州」の呼称は、まぁ、ささいな問題でして、内容としては前巻「大正デモクラシー」の華やかな時代から急転直下、軍部の独裁へと進む時代の過渡期で、対外的な「危機」が連続していきます。主に日中関係をはじめ日本の国際関係、外交政策が中心に論じられ、国内の事象はほとんど現れません。これも前巻「大正デモクラシー」が国内の、特に労働者や女性に焦点をあててその動向を詳述していたのと対照的です。これは当時の軍部のやり口、考え方に対応していて、対外的な「危機」を演出することで、国内の諸問題は些細なこと、どうでもいいことだと国民に思い込ませて協力を強制していったことに通じています。協力とは本来自発的に実行するものであって、「協力を強制する」という言い回しは言葉の使用法がおかしいのですが、軍部のやり方としてはまさに「協力を強制」したのです。

日本の国際関係、外交政策が記載内容の中心に据えられていることから、その方面に関する記述はかなり詳細です。日中交渉や国際連盟における駆け引きなどは非常に興味深く読めました。



本書では知らなかったこともいくつか知りました。満洲事変に際して国際連盟が派遣したリットン調査団は有名ですが、その報告書の具体的内容は読んだことがありませんでした。本書ではその内容について、非常に部分的ではありますがいくつか引用されており、印象としてはかなり日本の立場に配慮したものであったことが意外でした。すなわち、学校の歴史の授業では国際連盟リットン調査団の報告書を採択して日本を非難した、というような論調で教えていたと思うのですが、実際にはリットンは事態の平和的な解決に向けて日本と中国の関係を取り持つようなことを考えていたようで、本心では日本に非があると認識していたようですが、少なくとも報告書の内容に関しては日本、中国の双方が受け入れられるようにかなり苦心して両者に配慮しています。また、このリットン調査団の報告書の採択を通じて日本の国際連盟脱退に至る際に日本の首席全権であった松岡洋右が脱退反対であったということも初めて知りました。松岡は後に外務大臣として日独伊三国軍事同盟締結を進めるなど日本の枢軸入りを積極的に推進したことなどから、もっと強行的な人物だと思っていたのですが、国際連盟における交渉の中で松岡が当時の日本の外務大臣内田康哉とやりとりしていた中では数次にわたってイギリスなどにより提示された妥協案を受け入れるように日本政府を説得しており、国際政治の中で日本を孤立させてはならない、というかなり常識的な判断を持っていたことが伺えます。本書では日本の国際連盟脱退の「主犯」はその外務大臣の内田だとしています。内田が妥協案をことごとく拒絶したのだと説明されています。



そして日中戦争が始まります。蘆溝橋事件から5ヶ月後に南京が陥落しその際に虐殺があったと言われますが、本書は事件はあった、との記述です。しかし規模については言及がありません。ただ一つ紹介されている話があります。1933年に陸軍歩兵学校が頒布した「対支那軍戦闘法の研究」という冊子には「『支那人は戸籍法完全ならざるのみならず、特に兵員は浮浪者』が多いので、『仮にこれを殺害又は他の地方に放つも世間的に問題となること無し』」などと主張されていたそうです。この冊子が最前線の兵士にどの程度の影響力があったのか分かりませんし、たとえこの論理をもってしても民間人の殺害は正当化できないのですが、軍の内部にはこのような考え方も存在し、それが明文化される程度に共有されていたのだということです。

日本の歴史〈18〉幕藩制の苦悶

日本の歴史〈18〉幕藩制の苦悶 (中公文庫)

日本の歴史〈18〉幕藩制の苦悶 (中公文庫)



中公文庫「日本の歴史」シリーズの第18巻は江戸時代後期。巻末の年表では1781年から1845年まで。ほぼ、徳川第11代将軍家斉の生涯(1787〜1837)と重なります。



前巻の元禄の華やかさから一転、天明の大飢饉から始まる本巻はかなり暗い世相の時代へと突入していきます。この巻が扱う時代の主な出来事はこの天明の大飢饉に始まって、寛政の改革大塩平八郎の乱天保の改革など。前巻で田沼意次重商主義に転換しかけたところで失脚し、寛政の改革によりふたたび重農主義、倹約主義に揺り戻します。すでに農業を基盤とする幕府の体制は危機的状況にあったにもかかわらず、商工業を卑しいものとする思想から幕府は抜け出せません。これが武士階級の限界でしょうか。



寛政・天保の改革には見るべきものはほとんどなく、見当違いな政策を連発して幕府はどんどん弱っていきます。その極みは天保の改革で出された上知令。幕府の存立基盤は武士階級であるため武士階級に利益を与え代わりにその支持を得るのが基本政策であるべきですが、幕府の財政窮乏の度合いは重篤状態にあり、ついに武士領主すなわち藩から領地を広く召し上げようとします。当然諸藩はこれに強く反対し結果として上知令は撤回されるのですが、これにより失った武士階級からの支持は幕府にとってかなり痛手であったろうと思います。



外交関係も結構おもしろく読めました。寛政の改革を主導した松平定信の時代にはすでにロシアが日本近海に出没し外患を成していましたが、このころは後に幕末のころに言われる「鎖国は祖法」という思想はまだなく、松平定信は対ロシア開国も考えていたそうで、これには驚きました。まだこのころは外国対策で幕府が朝廷にお伺いを立てるというようなことはなく、松平定信も開国を議論するにあたって朝廷の意見を聞くようなことはしていません。幕府落ちぶれたりといえども、まだこの時期の幕府には余力がありました。というよりも朝廷を始め幕府に対抗しうるような勢力が未だ成長できていなかったことから相対的に幕府の力が強かっただけでしょうけれども。



文化面での記述もおもしろかったですね。江戸はもともと関東の片田舎で、徳川幕府成立後も文化的には畿内に大きく遅れを取ってきました。江戸に住む人々は武士にしろ町人にしろどこかから移住してきた者が多く、つまり地方出身者の集まりだったのです。しかし江戸が政治の中心となって以来200年を越えるようになるとそういった江戸在住者の中には数世代を江戸に過ごしてきた者達が現れ、次第に「江戸っ子」を形成するようになっていくのです。こうした人々が、町人層の経済的な成長とも相まって独自の文化を成立させていきます。ようやく京都、大坂の上方文化に対する江戸文化が成長していき、これが今の下町文化に繋がっています。この時期に成立した浮世絵も、江戸文化として紹介されています。



あとは、「大日本沿海輿地全図」を作った伊能忠敬間宮海峡を発見した間宮林蔵とが師弟関係にあったというのも知りませんでした。まだまだ歴史には知らないことが多く、こういう発見がまた歴史をおもしろくしていくんですよね。