日本の歴史〈20〉明治維新

日本の歴史〈20〉明治維新 (中公文庫)

日本の歴史〈20〉明治維新 (中公文庫)



中公文庫の日本の歴史シリーズ第20巻は「明治維新」。1868年の王政復古クーデターから1877年の西南戦争まで。


王政復古から鳥羽・伏見の戦いまで、期間としては12月9日から1月3日までの1ヶ月足らずなのに対して3章もの記述を費やしており、内容が非常に詳細です。この時期、朝廷においてはまだ公儀政体派が勝利する可能性はかなり高いものがありました。公儀政体派とは、天皇を中心として公家、有力大名が集まって合議によって政治運営を行うことを目指す一団で、その合議の議長に徳川慶喜を据えることを目標にしていました。実際にあった明治維新に比べればはるかに保守的であり、幕末の混乱をできる限り軟着陸させようとしていました。これはもちろん当時の権力層、既得権者たちにとっては魅力的な案であり、上層部の支持は身分の低い大久保利通西郷隆盛らの唱える武力倒幕よりもこちらに集まっていました。本書の経緯を読むと、徳川慶喜の京都進軍さえなければ徳川の復権はありえたように思います。しかし実際には、徳川方の内実からすると「徳川慶喜の京都進軍さえなければ」という条件は満たすのが難しいものでした。


以降、戊辰戦争江戸開城会津戦争蝦夷地平定と続いて明治新政府の勝利に終わるのですが、この間、明治新政府は民衆の支持を集めるために年貢半減などの大盤振る舞いをし続けます。当然戦費など多額の費用が必要なのに対して新政府はできたばかりですから蓄えなどあるはずもなく、まして税収も減少すれば財政が逼迫するのは目に見えています。したがって新政府は戦争が終わるとすぐに民衆を裏切り、弾圧に転じます。つまり明治新政府はまったく民衆の利害を代表しておらず、明治維新は権力者層内部の主導権争いにすぎないのです。明治新政府のこと性質は、のちに各地で発生する士族反乱に結構手こずることに繋がっていきます。


この戊辰戦争に際しては諸外国が幕府・新政府双方に協力を申し出ます。協力というのは武器弾薬の提供のことですが、当然無償提供ではなく売るのです。これは経済的に、「儲けよう」という狙いのように見えますが、そうではありません。幕府・新政府の財力には限りがあり、それはすぐにも尽きてしまうほど小さなものです。諸外国は無論それを承知しています。財力が尽きればどうするのか、それは自国から幕府・新政府に貸すのです。すなわち幕府・新政府の債権者となることにより政治的な影響力を獲得しようとする戦略なのです。そして政治的な圧力により日本における利権を独占して債権を回収し、さらに以降半永久的に利益をむさぼろうとしていたのです。これは当時のヨーロッパ諸国が実施していた侵略地域の植民地化の常套手段なのですが、幕府・新政府の指導者はこれを知ってか知らずか、この諸外国の協力の申し出を拒絶しています。優勢であった新政府のみならず、支援が欲しかったに違いない幕府側でも拒絶しているのです。著者は両陣営のこの態度を絶賛していますが、これは確かに世界史的にも稀なことであり国内の一大変革の混乱の最中にも外国勢力に付け入る隙を与えなかった先人たちの態度は実にすばらしいものだと思います。


私は知らなかったのですが、廃仏毀釈というのは明治政府が意図したものではなかったのですね。明治政府は天皇の権威確立のために神道を再興することを目指しており、その一環として神仏分離令を発します。しかし民衆の仏教信仰も知っている政府は仏教の弾圧までは考えていませんでした。ところが政府の意図に反して、仏教に敵対心を持つ神道関係者や領主としての寺院に反感を持つ民衆が神道再興の政府の意図に便乗して仏教を攻撃するに至り、そこで発生するのが廃仏毀釈です。政府はこれに驚いて、逆に仏教保護を打ち出します。明治政府はわりと現実主義的で、国家神道を推進しつつも、しかし原理主義的に神道以外は認めないというような強行な政策は採りません。


しかし本書の著者は無条件に明治維新の指導者たちを礼賛しているわけではなく、上に書いた民衆に対する明治政府の態度や、征韓論、国権外交などには批判的です。礼賛一辺倒でも批判一辺倒でもないところに、歴史学者としての著者の冷静で公正な歴史に対する評価を伺うことができます。本書は1974年発行のものを再版したものですから内容的に古く、巻末の解説にもあるように近年の研究の進展により訂正すべき、または補完すべき部分もありますが、歴史本としては非常に優れたものであると思います。

星空を歩く―巨大望遠鏡が見た宇宙



天文学者による星空観測の勧めです。


著者は天文学者ですが、そんなに難しい本ではありません。学術的な内容も要所要所にはでてきますが、そこは飛ばして読んでも差し支えないでしょう。本書の内容のメインは、素人にも直感で分かる天体の美しさの紹介と、「星空を見ようよ」という著者のメッセージです。


数ページのカラーページに美しい天体写真が載っていますが本書の大半は白黒の通常に新書本のページです。本文中にも多数の天体写真(白黒ですが)が挿入されています。構成は基本的には1月から12月までの1年を通して、その季節ごとに見える星座や美しい天体を著者の実体験、思い出話を交えながら紹介していきます。が、話が脱線することもしばしばあり、やや専門的な話も出てきますが私は楽しんで読めました。


本書を読んでいると、この本の著者は本当に星が好きなのだろうな、と思えます。このような好きなことを職業にできた人をうらやましく思います。さまざまな星々、銀河、彗星、流星などの話を読んでいると、自分でもちょっと見てみたいなと思うこともあります。ただ、都会ではよほど明るい星以外は見えないので、ほとんどの天体は夜間に郊外に遠征しなければ見ることができず、気軽に見ることができないのは現代の不幸ですね。夜が明るくなったことは犯罪の抑止などに役立っていますが、こと天体観測に関してはマイナスの影響が出ています。不幸中の幸いか、今年は節電で街灯や電飾が弱められたり消されたりしているところが多いですから、夜空を見上げてみるのもよいかもしれません。

アジア・太平洋戦争―シリーズ日本近現代史〈6〉

アジア・太平洋戦争―シリーズ日本近現代史〈6〉 (岩波新書)

アジア・太平洋戦争―シリーズ日本近現代史〈6〉 (岩波新書)



岩波のシリーズ日本近現代史の第6巻は第二次世界大戦期の日本。1940年から1945年まで。


著者は太平洋戦争という呼び名は「日米戦争本位の呼称」であって、「中国戦線や東南アジアの占領地の重要性が見失われてしまう」という理由から表題の「アジア・太平洋戦争」という名称を提唱されているそうです。確かに海軍は開戦当初からアメリカ軍と戦っていましたが、陸軍はガダルカナルのころまでは中国、東南アジアを主戦場として主に中国(国民党軍)、イギリス、オランダなどと戦っていました。日本人にとっては終盤にアメリカによって国土に大打撃を与えられたインパクトから対米戦争という印象を持ちがちですが、当初の日本の戦争目的(国内の意思統一が果たされておらず、いろんな立場の人間がいろいろな目的を提唱していますが)の中ではアメリカの打倒は主目的ではありませんでした。


本書の内容のメインは開戦にいたるまでの経緯と、戦争下の国民生活。そのほかに軍における兵の扱いや日本政府の構造的な欠陥とそれを乗り越えようとする東条英機の努力などです。本書は通史本であって戦記本ではないので、こまかい戦況の推移や個々の戦闘の詳細などはほとんど記されません。


戦記本の中には日本の開戦時の快進撃を称賛するようなものが多いですが、基本的にはその快進撃は準備不足の相手に対する奇襲効果であって、日本軍が本質的に強かったわけではありません。もちろん奇襲は立派な戦術であってそれに成功したことは一定の評価をし得るものではありますが、その成功を戦略的あるいは政略的な勝利に結びつけることができなかった展望のなさの方がより重要であろうと思います。


戦争の中で国民生活はどんどん窮乏し、兵の戦死は急増し、空襲によって民間人も多数が死亡する事態となり、多くの人々が相当な苦難に直面するのですが、感じるのは日本人の行動力のなさです。戦時下の生活の悲惨さを強調されればされるほど、なぜそのような状況に耐えようとするのか、理解に苦しみます。たとえば、第一次大戦では敗勢にあったドイツで革命が起こりドイツ帝国は崩壊しました。ロシアは戦勝国側でしたが国民が戦争負担に耐え切れず革命を起こしました。第二次大戦でもイタリアでは戦局が不利になるとすぐにムッソリーニが失脚し、いち早く降伏しています。日本人は生活がどれだけ苦しくなろうともほとんど文句も言わず行動も起こさず、結局敗戦まで革命どころか小規模な暴動すらも起こりません。確かに軍部による監視統制が厳しく、ヘタな行動に出れば殺される危険があったのではありますが、行動にでなくても空襲や飢餓で死ぬ可能性は大いにあり日々死に直面しながら生活していたのですから、どうせ死ぬなら何かやろう、みたいな気概がまったくないというのは問題だといいましょうか、やや残念です。


現在でも東日本大震災の復興にあたって、「国が対策を実行しろ」「国が基準を示せ」「国が展望を描け」と、「国が〜、国が〜」の大合唱ですから、よほど政府が大好きなお国柄なのかもしれません。要求するだけで何も行動しないという点においては一般市民から地方自治体の長まで同じであり、地方分権なども絵に描いた餅だな、と思えます。対策にしても「オレが行動するから、国はカネだけよこせ」とか、基準や展望についても「オレが示してやるから国は承認だけしろ」というような行動的な対処があり得るはずですが、報道を通じて知るかぎりでは政治家にしても学識者にしてもその他もろもろの立場の人にしても、そのようなリーダーシップを取ろうとしている人はいないようです。行動力のなさというのは、あるいは日本人の国民性に根差した深い問題なのかもしれません。